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東京地方裁判所 平成10年(ワ)13556号 判決

原告 X

右訴訟代理人弁護士 井口博

被告 株式会社三和銀行

右代表者代表取締役 A

右訴訟代理人弁護士 小沢征行

同 上野和哉

同 秋山泰夫

同 露木琢磨

同 北村康央

同 小野孝明

同 安部智也

同 御子柴一彦

同 山崎篤士

主文

一  被告は、原告に対し、金四二七万円及び内金三九七万円に対する平成一〇年四月一六日から支払ずみまで年六分の割合による金員を、内金三〇万円に対する同日から支払ずみまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを一〇分し、その一を原告、その余を被告の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告に対し、金四七六万円及びこれに対する平成一〇年四月一六日から支払ずみまで年六分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、原告が、被告に対し、被告が氏名不詳者に対し原告の預金を払い戻したのは無効であるとして、預金払戻請求権に基づき元金及び遅延損害金並びに本件訴訟に要した弁護士費用の支払を求めたのに対し、被告は、氏名不詳者に対する被告の預金払戻は債務の本旨に従った弁済である、あるいは、債権の準占有者に対する弁済として有効であるなどと主張して争っている事案である。

一  争いのない事実等(証拠等によって認定した事実は末尾に当該証拠等を掲記する)

1  原告は、平成九年二月四日、被告品川駅前支店において、「三和総合口座定期預金」口座(口座番号(〈省略〉)(以下「本件口座」という)を開設し、「X」という原告の届出印が副印鑑として押捺された預金通帳(以下「本件預金通帳」)の交付を受けた(口座開設日時につき、乙一)。

2  原告は、平成一〇年四月一〇日(金曜日)現在、本件口座に、三九七万〇二八六円の預金債権を有していた。

3  平成一〇年四月一三日(月曜日)午前九時すぎころ、氏名不詳者(男、二十歳代後半から三十歳前後)が、被告大泉支店で、お届け印欄に原告の名字である「X」印を押捺し、払戻金額欄に2000000、口座番号欄に〈省略〉、おなまえ欄に「X」等と記入した払戻請求書を提出して、原告の本件口座から預金二〇〇万円の払戻請求をした〈証拠省略〉。

4  被告大泉支店では、まずB(以下「B」という)が払戻請求書に押捺されていた印影と届出印の副印鑑の印影(以下「届出印の印影」という)とを肉眼により平面照合し、同一であると判断し、さらに、同店の支店長代理であるCに払戻事務を引き継いだ。Cも、印鑑の平面照合をしたうえ、更に、払戻請求書に請求者の住所を書かせたうえで、二〇〇万円の払戻をした。〈証拠省略〉

5  次いで平成一〇年四月一三日(月曜日)午前九時三〇分すぎころ、前記氏名不詳者が、被告上石神井支店で、前記3と同様に、お届け印欄に原告の名字である「X」印を押捺し、払戻金額欄に1970000、口座番号欄に〈省略〉、おなまえ欄に「X」等と記入した払戻請求書を提出して、原告の本件口座から預金一九七万円の払戻請求をした。

6  被告上石神井支店では、まずD(以下「D」という)が払戻請求書に押捺されていた印影と届出印の印影とを肉眼により平面照合し、同一であると判断し、払戻請求者に住所を記載させその同一性を確認した。Dは、さらに、同店の支店長代理であるEに払戻事務を引き継いだ。Eも、印鑑の平面照合をしたうえ、一九七万円の払戻をした(なお、以下、右二件の払戻を「本件払戻」といい、右二枚の払戻請求書を「本件払戻請求書」という。)。〈証拠省略〉

7  原告は、平成一〇年四月一五日、被告に対し、本件口座の預金払戻請求をしたが、被告は、氏名不詳者に対する本件払戻に過失はなく、本件口座には預金がないとして、その請求に応じなかった。このため、原告は、本件預金の返還を求めるために本件訴訟を提起し、その訴訟追行を弁護士井口博に依頼した。(訴訟委任につき、弁論の全趣旨)

二  争点

1  被告の氏名不詳者への本件払戻は本旨弁済か。

(被告の主張)

原告主張にかかる本件預金通帳の盗取時点から本件払戻請求までの期間が約三日と短いこと、氏名不詳者がその間に印章を偽造したと考えるのは不自然であること、氏名不詳者が原告の住所を知っており、かつ、これを被告支店店頭でメモも見ずに間違えず書いたこと等を考慮すると、被告の本件払戻は、原告から払戻の権限を与えられていた氏名不詳者への払戻と考えられ、本旨弁済というべきである。

(原告の主張)

氏名不詳者により、平成一〇年四月一〇日午後ころ本件預金通帳が盗まれ、本件届出印が偽造された。本件払戻は、かかる偽造印を使用して行われたものであり、本旨弁済には当たらない。

2  原告の本件口座の届出印の印影と本件払戻請求書の印影は同一か。

(被告の主張)

同一である。原告の主張する差異は、朱肉のつき具合、押捺の仕方、紙質の違いなどから、同一の印章によっても生じる相違である。

(原告の主張)

届出印の印影は正円であるが、本件払戻請求書の印影は縦長の楕円であること、届出印の印影は「●」のウ冠の右側が「▲ 」からはっきり離れているが、本件払戻請求書の印影では、それがほぼ接着してるなど、両者の印影は明らかに異なる。

3  被告は、本件払戻に当たり、印鑑照合等に相当な注意を払い、その払戻に過失がなかったか(免責約款、債権の準占有者に対する弁済)。

(被告の主張)

(一) 預金の払戻においては、取引通念上払戻請求者が正当な受領権限を有しないことを疑わしめる特段の事情がない限り、払戻担当者は相当な注意を払って印鑑照合を行えば足り、折り重ねによる照合、払戻請求者への質問などはする必要がない。

(二) 本件では、払戻請求者に不審な点は見られず、特段の事情は認められない。したがって、被告担当者としては、相当な注意を払って印鑑照合を行えば足りるところ、原告の届出印の印影と本件払戻請求書の印影は、字の丸み、円と文字の接し方、部首と部首との接着具合等が極めて酷似しており、被告担当者が平面照合により同一と判断したことに過失はない。もし、過失があるというのなら、およそ肉眼による印鑑照合という制度自体成り立たなくなってしまう。

(原告の主張)

(一) 被告の注意義務については、被告の前記(一)の主張と同じである。

(二) 被告の払戻担当者は、相当な注意を払って印鑑照合すれば、原告の届出印の印影と本件払戻請求書の印影とが相違していたことを発見できたはずであり、被告の本件払戻には過失がある。なぜなら、両者の印影が異なるのは、前記2の「原告の主張」欄記載のとおり明らかであるからである。

(三) また、本件では、払戻額が大きいこと、他店扱いの払戻であること、印影の同一性に疑いがあることなどから、特段の事情がある場合といえ、折り重ねによる照合が必要な場合であり、かかる照合を行っていれば、原告の届出印の印影と本件払戻請求書の印影とが相違していたことを発見できたはずである。よって、被告の本件払戻には過失がある。

第三争点に対する判断

一  争点1(本旨弁済)について

前記一の争いのない事実等に証拠〈省略〉、弁論の全趣旨を併せ考慮すると、原告主張にかかる本件預金通帳の紛失時点から氏名不詳者による本件払戻請求までの期間が約三日と短いこと、この三日間には土曜、日曜が含まれており原告の届出印を偽造することには支障をともなう面があること、氏名不詳者は被告大泉支店及び同上石神井支店で本件払戻請求書に原告の住所をメモも見ないで記載したことが認められる。このような事実から、氏名不詳者が原告から本件口座の預金払戻権限を与えられていたのではないのかとの疑いを抱いた被告の気持ちもわからないではないが、かかる事実から、原告が氏名不詳者に預金払戻の権限を与えていたと認定することは困難である。のみならず、前記一の争いのない事実からも明らかなとおり、氏名不詳者は、同一の日の極めて近接した時間に異なる支店で預金全額の約半額ずつの払戻の請求をしているのであり、かかる行動の不自然性をも勘案すると、本件払戻が本旨弁済であるとの被告の主張は採用することができない。

二  争点2(印影の同一性)について

証拠〈省略〉及び弁論の全趣旨によれば、原告の届出印の印影(乙一)と本件払戻請求書の印影(乙二、三)とを重ね合わせ、透かして見ると、(一)両者の印影の大きさは明らかに異なり、両者の文字が重なり合わないこと、(二)その食い違いは、朱肉のつき具合、押捺の仕方、紙質の違いなどでは説明がつきにくい程度であることが認められる。当裁判所は、第一〇回口頭弁論期日において、被告代理人に、両者の印影は異なると思うが、どうしても同一というのなら、鑑定をしたらどうかと勧めた。これに対し、被告代理人は、第一一回口頭弁論期日において、鑑定を申請するつもりはなく、両者が同一か否かは裁判所の判断に任せるとの態度をとった。

以上によれば、原告の届出印の印影と本件払戻請求書の印影とは、明らかに異なっており、この点についての被告の主張は理由がない。

三  争点3(免責約款、債権の準占有者に対する弁済)について

1  預金払戻にあたっての銀行担当者の注意義務の基準

預金払戻にあたって銀行担当者の果たすべき注意義務について、当裁判所は次のように解するのが相当と考える。預金の払戻において、取引通念上払戻請求者が正当な受領権限を有しないことを疑わしめる特段の事情がない限り、払戻担当者は、折り重ねによる照合や拡大鏡等による照合をするまでの必要なく、肉眼による平面照合の方法をもってすれば足りる。この場合、払戻担当者は、銀行の印鑑照合を担当する者として、社会通念上一般に期待される業務上の相当の注意をもって照合を行うことが要求され、そのような事務に習熟している銀行員が、通常の事務処理の過程で、限られた時間内ではあるが、相当の注意を払って照合するならば、肉眼をもって別異の印章による印影であることが発見し得るのに、そのような印影の相違を看過した場合には、銀行には過失があり、免責約款はもとより、債権の準占有者の規定の適用もできないと解するのが相当である(同旨 最二小判平成一〇・三・二七金融・商事判例一〇四九号一二頁、東京高判平成九・九・一八判タ九八四号一八八頁)。

2  本件の検討

(一) これを本件についてみるに、原告の届出印の印影である乙一号証と本件払戻請求書に押捺されている印影である乙二、三号証を対比してみると、両者の印影の字の丸み、円と文字の接し方、部首と部首との接着具合などがよく似ており、漫然と見る限り両者の違いに気がつかないおそれが強い。しかし、注意して肉眼で見ると、届出印の印影の形がほぼ正円なのに対し、本件払戻請求書の印影の形は届出印の印影の形を少し長細くした形であることが分かる。また、届出印の印影では「●」のウ冠の右側が「▲ 」からはっきり離れているのに対し、本件払戻請求書の印影ではそれがほぼ接着してる点が肉眼で分かる。

以上のとおり、両者の印影は、漫然とみている限りその相違点を明確に認識することはできないが、印鑑照合事務に習熟している銀行員が、通常の事務処理の過程で、限られた時間内ではあるが、相当の注意を払って照合するならば、肉眼をもって別異の印章による印影であることが発見し得たというべきである。したがって、両者の印影が相違してることを看過した、被告の本件払戻担当者であったB、C、D、Eには過失があり、被告の免責約款、債権の準占有者に対する弁済の抗弁を認めることは相当ではない。

(二) 更に、本件では次のようなこともいえる。

前記一の争いのない事実等に証拠〈省略〉、弁論の全趣旨を併せ考慮すると、次の事実が認められる。

被告大泉支店、同上石神井支店に本件払戻請求に現われた氏名不詳者は、二十歳代後半から三十歳前後の男性で、帽子を目深にかぶっていた(このため、被告大泉支店のビデオに氏名不詳者の姿が写っていたが、その人物が誰であるか特定できなかった。)。他店扱いの払戻であること、払戻額も大きかったことから、被告大泉支店、同上石神井支店では、氏名不詳者に、払戻請求書に住所を記載してもらった。その住所は、杉並区であり、被告大泉支店、同上石神井支店のある練馬区とは離れており、本件口座のある品川支店とも離れていた。しかも、氏名不詳者の提出した払戻請求書の名前は「X」ではなく、「■ 」という名前が記載されていた(ちなみに、本件通帳、届出印の名字も「■ 」ではなく、「X」となっている)。また、氏名不詳者は、年齢からみて原告とは別人であることが被告大泉支店、同上石神井支店の払戻担当者にはわかっていた。このため、被告大泉支店の支店長代理であったCは、氏名不詳者に原告の息子かと確認したが、違うという返事をもらっただけでそれ以上の質問はしなかった。

以上の認定事実、とりわけ、氏名不詳者は帽子を目深にかぶり被告大泉支店設置のビデオで人物が特定できない状況であったこと、本件払戻は他店扱いでしかも多額の払戻であること、氏名不詳者は本件預金者(原告)とは明らかに異なる人物であり、しかも本件払戻請求書の名字は届出印、本件通帳の「X」ではなく「■ 」が記載されていたことに、前記(一)で認定したとおり本件払戻請求書に押捺された印影の形が届出印の印影と異なり、このことは印鑑照合事務に習熟している銀行員が、通常の注意を払えば肉眼でも発見しえたことを加味すると、前記氏名不詳者には取引通念上正当な受領権限を有しないことを疑わしめる特段の事情があったと認めるのが相当である。

そうだとすると、本件では、平面照合に加え、届出印の印影と本件払戻請求書の印影とを重ねて照合すべきであり、かかる作業は容易かつ短時間にできるところ、かかる照合を行っていれば、両者の印影の差異は容易に発見できたといえ、被告の本件払戻担当者であったB、C、D、Eには、この意味でも過失があったといえる。

3  小括

以上の検討から明らかなとおり、本件払戻につき、被告の担当者には過失があり、免責約款、債権の準占有者に対する弁済の規定を適用することはできず、この点に関する被告の主張は採用することができない。

四  弁護士費用について

前記一の争いのない事実等によれば、原告は被告が本件預金債権の支払に応じないので本訴を提起し、弁護士井口博に訴訟追行を委任したことが認められる。そして、本件全証拠によれば、本件訴訟の難易、請求額等諸般の事情に照らし、弁護士費用として認めるべき額は三〇万円(弁護士費用は商事債権とは認められず、通常の民法所定の年五分の割合の遅延損害金の支払を求める限度で理由がある)であると認めるのが相当であって、それを超える額については相当因果関係のある損害と認めるに足りる証拠はないというべきである。

第四結論

以上のとおり、原告の請求は、金四二七万円及び内金三九七万円に対する平成一〇年四月一六日から支払ずみまで年六分の割合による金員、内金三〇万円に対する同日から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払を求める限度で理由があるのでこれを認容し、その余は理由がないのでこれを棄却することにする。

(裁判官 難波孝一)

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